微生物学者が乳がんになった時(Ⅰ:自己紹介)

Ⅰ:自己紹介

2016年9月17日
教室のhome coming partyで

タイトルの背景を知っていただくために自己紹介をします。

著者は、1950年福津市勝浦(旧:宗像郡津屋崎町勝浦)に生まれ、高校までこの地で育ちました。これは‘ちょっとひとやすみ’のところに関連します。

九州大学薬学部の4年生から修士課程の2年3か月(1968年入学時からの学生紛争のあおりで4年生は3か月のみ)で大腸菌のDNAの複製機構の遺伝学的研究をしました。1974年~1980年九大医学部細菌学教室で大腸菌や抗酸菌の分子遺伝学的研究に従事し、毎週の教室セミナーでは免疫学、ウイルス学も学びました。1980~2015年、産業医科大学微生物学教室では腸炎ビブリオ(食中毒)や結核菌の分子遺伝学的研究、環境や臨床検体の細菌叢の研究を行い、微生物学教室として細菌、ウイルス、真菌、プリオンの教育も行いました。退職前15年間は、NPO法人KRICT(北九州地域感染制御ティーム)副理事長として臨床現場の感染症対策を見分し、女医支援のアリスの会(産業医の母と言われるアリス・ハミルトンに因んだ命名)の立ち上げにもかかわりました。現在は、戸畑の(公財)北九州生活科学センターで細菌叢の検査体制を作る手伝いをしています。

学生時代も含めると43年の間、一貫して微生物を対象に教育・研究に携わってきましたので、全体のタイトル<微生物学者が乳がんになった時>になりました。その中で学んだ言葉や経験が、乳がんになってその意味があらたになったものが第一弾、第二弾のタイトルです。遺伝学的研究をしてきたものとして、ヒトの遺伝子の変異の集積であるがんのメカニズムについては質問が満載です。そしてこれに応えてくれる友人、知人には事欠きません。がん治療の経緯を薬や微生物や感染症の立場から見るのは、私にとっては自然です。

教育者として、研究者として、女性として、母として、婆として、いかに終活するか、これは産業医大女医支援の会であるアリスの会に投稿すべきでしょう、いや、アリスの会しか受けてくれるところはない、ということでここに至りました。2年前治療を始めた時、がん治療はこの2、3年で激変したと言われました。

皆さんの参考になることがあれば幸いです。

【ただし、この内容は乳がんの私個人の経験です。がんの種類だけでなく、同じタイプのがんでも一人一人経過は違うそうです。一人一人の患者さんに寄り添っていただければと思います。】

 

編集部より

谷口先生は、アリスの会の初代会長として大きく貢献してくださり、現在は、アリスの姉のエディスという立場から見守ってくださっています。